私たちは関係の取り結び方について二重の方法を採っている。 一つが内部である精神的な世界、後一つが外部に対する世界に於いての関係である。私たちは自らの内部に拘れば、仕組まれた精神分析の関係による分析、もしくは実体による分析、に拠ったにしろ<内位>の不在と実在に分裂するか、混濁するか、ないしは底知れない闇の大海に驚愕し、観念的言葉から逃避する方位しか残されてはいないのか。 しかし、其処に大海を見たい者は、其処に捕らわれたものは、さらに奥深く沈潜し、漆黒の深遠を、垂直的に極めたい蠱惑に誘惑され刈り取られる。それらのひとかどの者、俊傑が<言語>に設え構成し、物語として試作できる者たちが<作家>となることが、出来る。此れは現代の社会に在って腐敗した<市民社会>が<人間>を救える唯一の限られた方法だろう。現代に在って<作家>とは救済された、もしくは救済される未完の人物ということが出来るかもしれない。 もう一つの救済は<信仰>に拠ることである。内部に拘り続けるには、或る擬制が必要である。ここに擬制とは言語のことである。捉えきれない暗黒を言語によって水位を極め裁断し、分類することによって、<私たち>は己の漆黒の無資格性から辛うじて逃げ切ることが出来る。此れが精神分析の用語の起源であった。そこでは無意識に<性>的なものを、<内位>的素振りに求めるフロイトの世界と、<元型>に約言し尽くすに吝かでないユングの世界が在った。 ずいぶん以前のことになるが、精神分析とやらを此の二つで為てみたことがある。無論、専門的な訓練もないままに、また興味本位でして診たにすぎないが。そこでの感想は、<性>的な世界が実体であるに人物を通して現象するのは不愉快な衝突を生むということであり、<元型>に集極・発散するユング的発想は牧歌的に私たちを解放することに秀でているというこだ。 <制度>としての超自我がリビドーによって破戒されるときは其の人物の生存者である自我にとって、抑圧からの解放感がある。この解放感が好き嫌いの感性的由来かもしれぬ。此の解放感が現実的な白昼のものに完訳されるとき、法的国家内では犯罪とされ、市民社会に於ては全く至極正当な排除の論理が貫かれる。しかし超自我が自我を極めて自我に押し込めていくときと、リビドーが<制度>としての超自我に対立反抗し、自我に実体化、沈潜するとき<内位>の方で苛烈な激闘が始まる。此れが<悩み>の一つである。しかし自我が肥大化しているとき、理性的根拠によって確定できないとき、超自我に対立せず反抗にならない非反抗の反抗をすることになる。こうした回転、円舞の様子は二つの曇徴な公転と自転を示す。 一つの自転の在り方。一義的に定義されることを嫌う<内位>の在り方、存在様式は次の定義を厭い、納得することなど無いのである。納得を受け止める自我が非在だからである。好き嫌いに理由など無い、拠って理性的根拠を立てる自我など必要ないからである。 |